naui 50周年 ANNIVERSARY No.2 小林 保彦

naui 50周年 ANNIVERSARY

連載第二回目は、NAUI JAPAN創生期のITCスタッフとして活躍、
その後、米国ダイビング留学(?)を経験、
又、プロダイバーとして、幾多の海洋プロジェクトに参加された、
小林 保彦氏(NAUI INSTRUCTOR #2879)です。


1992年、東伊豆で開催されたITCのコースディレクターとして参加した小林保彦氏

「NAUIと私」

NAUI WW 50周年、NAUI JAPAN 40周年に当たり、1972年以来、NAUIと共に歩んできた者のひとりとして、自分自身の37年のイントラ歴を振り返り、NAUIとの関わり合いについて、思い出すまま正直に述べさせて戴きます。

「求心力のあったNAUI」
日本でもまだスピアフィッシングが行われていた頃、又、沖縄へ行くのにパスポートが必要だった1970年、NAUIは日本に導入されました。当時の日本のダイビング指導団体の指導法は、どちらかと言えば職人の徒弟制度のような教え方が主流だったように記憶しています。又、一部には、ベテランダイバーに、インストラクタートレーニングコースを経ることなく、一定の認定料のみでインストラクターに認定する、というようなことも行われておりました。〔現に私の知合いで、100$(当時のレートで¥36,000)でインストラクターになった人もいました。)
一方、米国で安全なダイバーと優秀なインストラクターを養成するという目的でスタートした教育熱心なNAUIは、日本で最初のインストラクタートレーニングコース(ITC)開催にあたり、本部から優秀なスタッフを派遣してきました。当時、年1回しか行われていなかったNAUIのITCは、第一期(1970年)第二期(1971年)とも米国のスタッフの指導と監視のもとで行われました。「なーにがNAUIでぃ」「いっちょう腕試しじゃ」とばかり、日本全国の強者(ツワモノ)ダイバーが東拓(今の伊豆海洋公園)に集結したにもかかわらず、第一期の無条件合格者は、受講生20数名中僅か8名という厳しいものでした。(条件付合格で、その後合格者は増えましたが)

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1980年、アメリカ・カリフォルニア。ITCスタッフと受講生。右から四人目が、コースディレクター、ジム・ヒックス氏。右から三人目が、スタッフのジェド・リビングストン氏

NAUI ITCの世間の評価は、有資格スタッフによる、厳しくも思いやりのある指導者養成をするという、年月を重ねる毎に高まっていきました。そして、自他共に認める、他団体からも一目置かれるようになりました。正に魅力的な求心力のある組織に成長したのです。手前味噌ではなく、1970年代のNAUIインストラクターのスティタスは、相当なものがありました。

比較的大きな会社(従業員36000人で巷では大企業と言われていた)の製鉄関係の設計部門に勤務していた私は、趣味のダイビングに奥行きを持たせ、立派な指導者に成るべく、A型の几帳面な性格も手伝い、迷わずNAUIを選びました。仕事の都合から2年間受講を見送り第三期(1972年)にITCを受講し、苦労しながらも無事合格することができました。
車に例えると、教習所で免許取得後、路上で周りに迷惑をかけることなく、スムーズに満足な運転が出来ない車の運転の如く、インストラクターになったからといって、直ぐに満足な講習が出来ないのが世の常です。ITCを受講して未熟を悟った私は、講習の実経験を積むべく、まず身近な同僚から講習を始め、JUTA(当時の日本潜水教育協会)の基礎スクーバ講習にも積極的にスタッフとして参加しました。伊豆海洋公園で、28名もの講習をメインスタッフで担当したこともありました。現在のリーダーシップコースに匹敵するような実技項目を、海洋公園の50mプールでしっかりとしごいた受講生は、目の前の海での海洋実習では安心して見ていられました。大勢の受講生に色々と苦労がありましたが、今となっては、楽しい思い出のひとつです。

1980年、アリゾナ州ツーソン。巨大サボテンとハンター(!?)小林

NAUIのITCの合格最終判定の言葉のひとつに『この人に最愛の人を任せられるか? 』という判定基準があります。いくらダイビング経験が豊富で、優れたダイビング技術を持っていても、その人が、乱暴であったり、困難に遭ったら途中で投げ出すような性格、所謂、情緒不安定、問題解決能力の無い指導力に欠ける人であったら、とても最愛の人を任せることは出来ません。実に的を得た判定基準の言葉だと思います。私は今でも、いつもこの言葉をモットーに、講習とツアーに臨んでいます。
1970年代のITCは第4期からスタッフとしてほぼ参加させて戴きました。年1回の開催の為、幾多のドラマが生まれ、中には指導者としての能力不足から、3年間もITCを受講して毎年不合格になり、結局4年目には諦めた受講者もいました。最愛の人を任せられなかったのです。

1985年、伊豆。開発のお手伝いをした、水中清掃ロボットの水中実験フィールドテスト。

NAUI ITC厳格なるかな。かくも教育に厳しいNAUIのITCでした。
その後、私も経験を積み重ね、NAUI JAPANの中で幹事及び理事も経験し、諸般の事情もあり、更に本場NAUIをもっと良く知ろうと、1980年に安定した大企業の職を捨ててまでも米国に渡り、半年間、NAUI USのダイビング事情を、この目でしっかりと見てきました。ジム・ヒックス氏の主宰するロスアンゼルスのPDC(プロフェッショナル・デベロップメント・センター)でITC参加、器材メーカーに直接出向き、オーバーホールの講習を受ける器材メンテナンスコース等、いろいろと実り多い体験をすることが出来ました。車を駆って足を伸ばしアリゾナからメキシコへ、はてはフロリダ南端キーウエストでキューバを遠方に望みつつダイビング。現地のインストラクターとの交流も行ってきました。当時米国ではNAUIが隆盛を保ちつつも、PADIが台頭し肩を並べるようになっていました。更に、NAUIが変わりつつある兆候に、教育優先で初期の頃に認定を受けたNAUI USのインストラクターは、既にその頃のNAUIの変化に不満を抱きつつありました。時代の流れはUSのダイビング界にも刻々と変化をもたらしていました。
話題はJAPANに移り、後にNAUI JAPANに導入された、個人開催のITCもCD(コースディレクター)として幾度となく開催させて戴きました。又、ICC(クロスオーバーコース)も何度か開催し、他団体のインストラクターの能力も把握することができました。会社勤めをしながらの、NAUIと共に歩んできたダイビング人生です。自然の偉大さと海の深さと包容力には遠く及びませんが、お蔭様で、人生に深みと幅を持たせることが出来ました。

1985年秋、NHK「海のシルクロード」製作スタッフ参加。シリア・タルトス沖合、台船上の潜水器材。ダブルタンク充填中(14Lスチールダブルタンク)。

「偉大なるNAUIの先輩」
1960年代後半、ひとりの若者が単身米国に渡り、当時米国で一番厳格で厳しいと言われたロスアンゼルス・カウンティのインストラクタートレーニングコースを受講して合格するまでの様子が、海の雑誌に掲載されました。ご年配のダイバーの方の中には記憶の片隅にあろうかと思いますが、その人こそNAUIを日本に導入した若き日の田口 哲さんです。彼は1970年代にNAUI JAPANの代表を務め、今日のNAUI JAPANの礎を築き、NAUI JAPANを大きく成長させた人物です。勿論、彼ひとりで出来た訳ではなく、周りのスタッフ・ブレーンあってのことは言うまでもありません。賞賛すべきは、まず行動・実行ありきです。とかく世間には、ひとの成し遂げた事に対して、やれ俺でも出来る、やれこうすればもっと良かった、とか、たられば的評論家が多い中、困難をものともせず、最初に行動し実行した人物がエライのです。そういう意味で先駆者田口 哲さんは、NAUIの偉大なる先輩のひとりです。
偉大なる先輩ふたり目は、初期の頃からITCダイブマスター(受講生に直に接して指導するチームリーダー)を務め、その博学多才、親身になった指導ぶりから、受講生に絶大なる信望のあった松岡 俊輔さん。そして彼は、有り余る潜水経験を持つ現役の作業ダイバー。ITCでの、彼のパワフルで、しかも分かり易いロープワークの指導法は、今でも鮮明に憶えています。私は米国から帰国後、松岡さんが仲間と作った会社にお世話になり、水中清掃ロボットの開発に携わり、設計技術者としての経験を生かすことが出来ました。又、水中調査、水中作業にも加わり作業ダイバーとしての経験も少なからず積むことが出来ました。4月海明け水温2℃水深32mでの宗谷岬漁礁撤去作業、水深65m九州沈船宝探し、島根沖水深55m波高計捜索回収、琵琶湖湖底遺跡発掘作業、その他数え上げればキリがありませんが、いずれも松岡さんの指導のもと、減圧テーブルに則った安全潜水作業でした。なかでも1985年、国際プロジェクトNHK「海のシルクロード」で、地中海シリア沖水深32m、古代交易船の調査発掘作業に、ダイバーの一員として参加した事が一番の思い出です。陸上重量70kg、ハウジング入りNHKハイビジョンカメラが、この時初めて海に入りました。今でこそハイビジョン映像は珍しくありませんが、当時はそのあまりにも鮮明な画像を観て一同驚嘆の一語ナリ。ともあれNAUIの人材で、いまだかって松岡さんを超える人物に出会ったことがありません。NAUIの偉大なる先輩松岡さんには公私共にお世話になりましたが、屈強な松岡 俊輔さんも、癌という病魔には勝てず、1999年冬に帰らぬ人となってしまいました。(合掌)

1985年秋、NHK「海のシルクロード」シリア・タルトス沖合、台船上にて、アンフォラ(壷)引き揚げ

話題は変わり、前述のように教育重視でスタートしたNAUIは、時を経て徐々に転換し、昨今のNAUIのビジネス展開の充実ぶりには目を見張る物があり、手作り手書き時代の事務局を知る者として隔世の感があります。NAUI初期の頃の教育重視、どちらかと言えば今のビジネス優先、両雄相成り立たず、どちらかが多少なりとも犠牲にならざるを得ないのは、過ぎ去りし歴史が事実を物語っています。偉大なるNAUIの先輩諸氏は、この辺をどのように受け留めておられるのでしょうか?

「シルバー世代のダイビング
若シルバー世代(勝手な造語です)の私は、還暦を過ぎてからもう4年になろうとしています。まだまだ現役で頑張るつもりです。明治、大正、昭和、平成を生きた元気な100歳の人生の達人から見れば、たかが還暦過ぎの若造は、シルバー世代では、まだまだ駆け出しのひよこです。今後益々高齢化する社会と共に、シルバーダイバーも増加すると思われます。年齢と体力と環境に応じたダイビングがこれからの課題です。「自力本願、臨機応変、緩急自在」を人生の指針として、心技体を充実し、自らの体力と気力に応じ、大自然と社会の情勢に逆らうことなく共存共栄を計り、柔軟に対応していきたいと考えています。周りに迷惑をかけずに、いつまでも元気な青年のような矍鑠(かくしゃく)たる老人を目指して、NAUI初期の頃の真髄を守りつつ、謙虚にこれからも海に親しんでいくつもりです。
以上、とり止めも無く、私とNAUIとの関わり合いについて書き連ねてきましたが、最後に、今後のNAUIの益々の発展を願い、NAUIについての正直な感想を述べさせて戴きました。

NAUI(#2879)小林保彦